何が残せるか

 

 

引っ越した。

 

半年間ほど、 バーチャルYouTuberを運営する会社のオフィスに住み込んで働いていた。朝になれば自動的に始業、夜は社員が全員帰るまで仕事、という環境。悪くはなかったが結構な頻度で気が狂った。流石にこれ以上住み着くのはお互いにとっても得策ではないと思い、物件探しを始めた。

 

新居は割とすぐに見つかった。一人暮らしを決めてから、実際に引っ越すまで、大体1ヶ月ほど。元々荷物が多い訳でもなかったので、「荷物を運ぶ」という意味においての引っ越しは友人達の協力によって数時間で終えることができた。残念ながらネット回線だけは開通が間に合わず、致し方なくiPhoneテザリングでPCをオンラインにしている。あと数日間の我慢とはいえどネットが自由に使えないのはほとんど呼吸困難に近い。

 

「できること」が減ると、必然的に空いた時間は考え事をしてしまう。

 

今現在、僕は「バーチャルYouTuberのプロデューサー」をしているらしい。よくよく考えればいつの間にそうなったのか全く覚えていない。ただ目の前にあるものを最大化しようと必死になっていたら、結果的にそういった立場───「肩書き」に近いものを持っていた。持たされていたというべきか。ハッキリ言ってそんなものはクソの役にも立たない。「バーチャルYouTuberのプロデューサー」という言葉を振り回して今後数十年を生きていけるとは毛ほども思わない。場合によっては数年経たない内に僕は路頭に迷うことになるだろう。このコンテンツを仕事にする、というのは僕の人生において最も大きなギャンブルだったが、「賭けに勝った」と言える日は来ない気がしてしまう。一歩間違えれば崖へ転げ落ちる細い道を、そう認識した上で歩もうとするにはあまりにも若すぎた。予防線もバックアップも何も無い。自ら背水の陣を敷いた記憶も、無い。要するにアホが運良く生き残ってるだけの状況だ。

 

まぁ、正直僕はそれでいい。死にたくはないが、死んでも仕方ない。元々どうしようもない愚図な人間だったのだから、むしろ身にあまる幸運を享受しているとも言える。

 

だが、なんと定義すればいいかわからないので一旦は「彼女達」としておくが、彼女達に関しては別だ。

 

僕が潰れようが潰れまいが、他人を巻き添えにしていい理由はどこにも無い。人生の貴重な「若い期間」を割いてくれている彼女達に、僕は少なくとも何かを残さなければならない。僕は前述した通り自分が潰れてしまうリスクを承知の上で活動しているが、彼女達にその覚悟はあるのだろうか。たぶん、「無い」のが当然だ。実際どうかはわからないし確かめる術もないが、少なくとも僕はそう仮定しているからこそ頭を悩ませている。

 

総称して「バーチャルYouTuber」と呼ばれる彼女達が、いつかその終わりを迎えるとして、その手元に一体何が残ると言うのだろう。経験は確実に残るものではあるが、それが「失敗としての経験」であって欲しくないのは、ひょっとすると僕のワガママなのかもしれない。勝手に自分で活動を始めて、勝手に辞めていくのならば知ったこっちゃないが、そうではないパターンもある。構造上、実績も残りづらいかもしれない。そして何より厄介なのは、「前例」が少なすぎることだ。最低限どこを目指すべきなのか、結果的にどうあるべきなのか、そんなことすらもぼやけている。これが独特な悩みなのか、あるいは他のコンテンツにおいても似たような状況がままあるのかすらわからない。それでも「頑張ってやっていく」のだが。

 

そもそも、いつか終わってしまうのを想定していること自体が間違いで、ネガティブなのかもしれない。

 

しかし、他人の「若さ」を背負っているという状況と向き合いもしないまま事を進めていくのは、きっと間違っていると思う。

 

そして、同じような気持ちで僕という人間を見てくれている人は、僕の若さを背負おうとしてくれている人は、どこかに一人でもいるのだろうか。